神奈川商工(現在の神奈川県立商工高校)で1950年夏の甲子園に出場した後、立大を経て1956年に南海(現ソフトバンク)に入団。1959年には故杉浦忠投手や野村克也捕手らとともに外野手として活躍。現役引退後はロッテ、日本ハムで監督を歴任。1981年には、江夏豊投手らを擁してリーグ優勝を果たした。
<コメント>
数年前、ブログに高校野球に関する記事を書く為に出場校の戦績等を調べていると偶然、母校の甲子園でのそれが出て来た。我が母校が最後に甲子園に出たのが1950年夏の大会。初戦の相手は当時の神奈川商工。結果は14−3で敗退とあった。結果よりも興味を引いたのは、神奈川商工の先発投手が「大沢」となっていた事。その「大沢」なる人物が、日本ハム等の監督を務めた後、球界のご意見番として人気のあった親分こと、大沢啓二氏だった言う事が分かったのは、暫く経ってからの事だった。日曜朝の番組の名物コーナーが好きで、ほぼ毎週見ていたが、以前よりも痩せられて顔色が悪い感じがしていたので気にはなっていたのだが・・・。
大沢氏と言えば、日本ハム監督時代の退場劇や不甲斐ない成績でファンの前で土下座したシーン等、今の言葉で言えばとにかく「熱い」監督だったと言う印象がある。グラウンドを離れてからも、歯に衣着せぬ語り口でプロ野球界の現状に意見し、マスターズリーグを創設するなど野球界の発展に貢献してきた。
プロ野球界にモノ申す人物が少なくなってきた今、大沢氏のような存在は貴重だった。それだけに、もうあの「べらんめぇ口調」が聞けないのかと思うと残念でならない。
今年は小林繁氏、木村拓也氏など、その時、その時で話題となった元プロ野球選手の訃報に触れた。そして、今のプロ野球界に欠かせない人物がまた1人この世を去って行った。ご冥福をお祈りしたい。

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